読書日記574:ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉



タイトル:ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉
作者:塩野七生
出版元:新潮社
その他:

あらすじ----------------------------------------------
ローマの再建に立ち上がったディオクレティアヌス帝は紀元293年、帝国を東西に分け、それぞれに正帝と副帝を置いて統治するシステム「四頭政」(テトラルキア)を導入した。これによって北方蛮族と東の大国ペルシアの侵入を退けることに成功。しかし、膨れ上がった軍事費をまかなうための新税制は、官僚機構を肥大化させただけだった。帝国改造の努力もむなしく、ローマはもはや、かつての「ローマ」ではなくなっていく―。

感想--------------------------------------------------
全四十三巻のローマ人の物語も残すところ数巻となってきました。「三世紀の危機」と呼ばれた国が三分される危機を乗り越え、短命の皇帝が続く時代も乗り越え、ローマは皇帝ディオクレティアヌスが治める絶対君主制の時代へと移っていきます。

本巻を読むと、同じ「ローマ帝国」でもカエサルやアウグストゥスの治めていた時代とは大きく変わってきている事がよくわかります。はじめに国民ありきで成り立っていた元首制のローマ帝国が、はじめに国ありきの絶対君主制のローマ帝国へと移行していきます。

本巻を読むと、ずいぶんと帝国自体が住みにくい時代になったのだろうな、と感じさせます。撃退したとはいえ常に蛮族や外国の脅威にさらされ、税金は高くなり、統制や圧力が厳しい世の中になっていったのだから当然でしょうね。四人の皇帝が治める四頭制の時代は外敵から国を守るにはうまく機能しますが、その分、国の維持に金がかかり、小さな政府から大きな政府へと変わっていきます。

過去のローマはもっと曖昧さや自由を許容していた雰囲気があるのですが、もうこの時代になると国も県単位で細かく統治され、非常に厳密な、曖昧さを許さない、システマチックな国になってきていると感じます。…読みながら、なんか最近の世の中に似ているな、と感じました。確かに便利になり、効率的にはなっているのでしょうが、曖昧さを許さない世の中は窮屈で、生きにくさを感じます。

カエサルやアウグストゥスの時代には、税金だけではとても公共整備は成り立たず、公共事業は私人の社会還元とも呼ばれる寄付でまかなわれていた、と書かれています。要するに、大金持ちが自腹を切って国のために尽くす訳ですが、このような慈善事業が当たり前に行われていた点が、生き方に余裕のあった時代だったのだな、と感じさせます。システムを作り、細かく制度を定めて統制してお金を徴収せざるを得なかった時代と、一個人の心にゆだねることで金をまかなう事ができた時代。本書には書かれていませんが、人としての生き方や考え方にも二つの時代では大きな違いがあったのだろうと想像させられます。そしてこれは現在にも通じる考え方ではないかと感じます。契約などに代表される「仕組み」「取り決めごと」「システム」というものは厳然として確かではあるのですが、良くも悪くも人の心の入り込む余地を奪うため、これらが支配する世界は人の心の通わない、どこか冷たい世界になっていきます。まさにこれがこの三世紀末のローマ帝国なのだろうな、と感じます。


人は自分が一度犯した間違いから学ぶ事はできますが、他人の犯した間違いから学ぶ事は、なかなかできないのではないか、とも感じました。それが「歴史は繰り返す」という言葉に繋がっていくのだと思うのですが、この「他人の失敗から学ぶ」ということをできるようになる事が、人類の進歩の目安になるんじゃないか?、なんて考えたりもします。他人の失敗から学ぶ、つまり歴史から学ぶ事で、繁栄と滅亡というスパイラルから抜け出していくことができるのではないだろうか?なんて考えたりもします。ローマ帝国はこの百年あまり後に蛮族により滅ぼされます。繁栄と滅亡は避けられない流れだとしても、悲劇をなるべく回避できる方法を過去の歴史から学べたりしないんだろうか?それが現在の多くの国に求められている事なのではないだろうか?なんて考えたりもした巻でした。



総合評価(S・A・B・C・D・Eの6段階評価):
レビュープラス

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